授業改善には、いろいろな方法があるが、教師一人が独力でできることは限られている。より良い授業を目指して、ともに励まし合い切磋琢磨する仲間を見つけることが大切である。「学ぶことは真似ることから始まる」とよく言われる。優れた授業を数多く見て学ぶことは、特に経験の少ない若い先生方には重要である。また、勇気を出して、自分の授業や実践を公開し、他の人々から批評や助言を得ることも大切だ。自己の経験からだけでは視野が広がらないので、英語教育に関する様々な文献を読み、自分なりに消化して授業に取り入れることも忘れてはならない。
ただ、ここで留意すべきことは、いかに本を読んだり、すぐれた授業実践を見たからと言って、そこに示されているものを自分自身の考えもなく、ただ真似るだけではうまく行く保証はない。対象とする生徒が異なり、指導する教師自身も違うのであるから、うまく行かなくてむしろ当然だと言えよう。「自分の育てたい理想の生徒のイメージ像」と「生徒達の現状(現在地点)」とのギャップの中から、授業改善の目標を一人ひとりの教師が自ら見つけ出し、それを克服するための具体的方法(仮説)を考えて、それを実践しながら、その効果を検証し、もし、うまく行かなかったら、仮説を修正して粘り強く取り組むことが必要である。このような手順をきちんと踏んで授業改善を進める方法が「アクション・リサーチ」である。リサーチと言っても、実験群と統制群に分けて、異なる指導法を実施し、その結果を有意差で数量的に検証するような、現場教員には技術的にも難しく、指導モラル上も実施困難なものでなく、目標意識を持って授業を行いながら、ピンポイントで具体的にその改善を図る、現場教師にすすめたい方法である。
Sunday, September 21, 2008
Wednesday, September 3, 2008
第3回 「中・高英語授業セルフ・チェック」髙橋 一幸(神奈川大学)
あなたの授業にこのような傾向は見られないだろうか? 自己点検から始めよう。自分の授業にいくらかでも次の授業のような傾向が見られる場合、また、幸いに自分の授業にはまったく当てはまらない場合でも、以下の授業は何が問題なのか、まずは読者ご自身で考えてみていただきたい。(筆者自身の分析は、本稿末に掲載しておくので、後ほどご確認いただきたい。)
[最近よく観る中学校の授業]
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教師の与えるゲーム的な言語活動に、生徒たちは楽しそうに元気に参加している。教室は一見活気に満ちている。しかし、生徒に近づき、その発話に耳を傾けてみると、英語のリズムや発音になっていない。英語自体にも誤りが多く、通じない文も多々見られる。
[昔ながらの高等学校の授業]
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教科書の内容理解(表面的な訳読)と教師の文法説明主体の旧態依然とした授業である。ごく少数の指名された生徒は立ってテキストを音読するが、発音も平板なカタカナ読みで、意味の区切りも意識できていないようである。
いかがであろうか? ここで少し立ち止まって、考えてみよう。
英語教師として、
・「私の理想とする英語授業とは?」
・「私の考える英語学力とは?」
・「生徒たちに育成したい態度とは?」
<中・高英語授業セルフ・チェック―筆者の分析>
[最近よく観る中学校の授業]
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活動に参加したことのrewardがなく、生徒に何ら変容が見られない。時間数不足もあろうが、生徒たちの興味を引く派手立つ活動に教師が目を奪われ、表現能力の基礎を作るドリルや音読・暗唱などの地道な練習活動(言語活動へのレディネス作り)が指導過程に欠落している。授業は遊びではない。楽しいだけでは授業にあらず。また、内容的もやりがいがあり、力がついているということを実感できる活動でないと、表面的楽しさだけでは生徒の興味・関心も長くは維持できないだろう。
[昔ながらの高等学校の授業]
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授業に具体的到達目標が見えない。生徒は怪しげな日本語訳はしているが本当に内容を理解しているかも極めて疑わしい。教師の延々たる説明に興味を示して耳を傾け理解できている生徒は少なそうだが、仮に理解できたとしても実践的な表現力や運用力には結びつくはずもない。生徒の表現能力や運用能力は、「表現する場、運用する場自体がまったく与えられていない」ので不明だが、授業でまったく育っていないことは断言できる。生徒は教わっていないこと、訓練していないことはできないものだから。生徒の学力は授業を映す鏡である。
[最近よく観る中学校の授業]
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教師の与えるゲーム的な言語活動に、生徒たちは楽しそうに元気に参加している。教室は一見活気に満ちている。しかし、生徒に近づき、その発話に耳を傾けてみると、英語のリズムや発音になっていない。英語自体にも誤りが多く、通じない文も多々見られる。
[昔ながらの高等学校の授業]
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教科書の内容理解(表面的な訳読)と教師の文法説明主体の旧態依然とした授業である。ごく少数の指名された生徒は立ってテキストを音読するが、発音も平板なカタカナ読みで、意味の区切りも意識できていないようである。
いかがであろうか? ここで少し立ち止まって、考えてみよう。
英語教師として、
・「私の理想とする英語授業とは?」
・「私の考える英語学力とは?」
・「生徒たちに育成したい態度とは?」
<中・高英語授業セルフ・チェック―筆者の分析>
[最近よく観る中学校の授業]
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活動に参加したことのrewardがなく、生徒に何ら変容が見られない。時間数不足もあろうが、生徒たちの興味を引く派手立つ活動に教師が目を奪われ、表現能力の基礎を作るドリルや音読・暗唱などの地道な練習活動(言語活動へのレディネス作り)が指導過程に欠落している。授業は遊びではない。楽しいだけでは授業にあらず。また、内容的もやりがいがあり、力がついているということを実感できる活動でないと、表面的楽しさだけでは生徒の興味・関心も長くは維持できないだろう。
[昔ながらの高等学校の授業]
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授業に具体的到達目標が見えない。生徒は怪しげな日本語訳はしているが本当に内容を理解しているかも極めて疑わしい。教師の延々たる説明に興味を示して耳を傾け理解できている生徒は少なそうだが、仮に理解できたとしても実践的な表現力や運用力には結びつくはずもない。生徒の表現能力や運用能力は、「表現する場、運用する場自体がまったく与えられていない」ので不明だが、授業でまったく育っていないことは断言できる。生徒は教わっていないこと、訓練していないことはできないものだから。生徒の学力は授業を映す鏡である。
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