「AR 支援ネットワーク通信」をお読みいただきありがとうございます。7月1日からこれまでに4回のメールを配信いたしました。本で言えば、第1章が終了したところです。ここまで読まれて、実際に研修を企画・運営されている皆さんは、どのような感想をもたれたでしょうか?
この通信では、情報が一方通行にならないよう、皆さんの意見を紹介したり、共通の課題を取り上げ議論したりするなど、できる限り双方向で進めていきたいと考えています。そのために、レクチャーの区切りごとに、このようなREVIEWを設けていく予定です。REVIEWの第1回は、5年間の英語教育指導力向上研修でアクション・リサーチを実施してきた高知県教育センター指導主事のYさんとIさんの感想をもとに、これまでのレクチャーの内容を振り返ります。
■アクション・リサーチと達成感
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「佐野先生からのメッセージを拝読するたびに元気をいただいております。佐野先生のメッセージは、いつも英語教育、人に対する情にあふれていて、どんなトピックでも的確な具体例によって、「動きが目に見える」ように導いてくださるからです。どこまで頑張ってもゴールはない教育という仕事に携わる私たちにとって、「具体的なゴールに向かう」という発想は本当に大事なことだと思います。それが佐野先生に御指導いただいたARに高知の英語教員が嬉々として取り組めた理由の一つではないかと思います。」
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5年間取り組んできて、アクション・リサーチには、達成感が実感しやすいという特徴があることが分かってきました。自己評価では、「授業について深く考察するようになった。」「生徒のニーズを踏まえて授業を実施するようになった」など、アクション・リサーチに取り組んだことで、自らの変容が実感できたとする意見が多く見られました。授業に対する肯定的態度が高まるのです。これは、具体的なゴールを定め、生徒をじっくり観察して、データをもとに検証するプロセスがあることによるのではないかと考えています。この辺りにも、教員研修でアクション・リサーチを実施する意義があると言えそうです。
■初任者研修とアクション・リサーチ
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「初任者研修では、具体的な短期目標を掲げるように気をつけています。受講者たちはあまりにも多くのことを一度に吸収しようと焦ったり、憧れ描いてきたものと現実とのギャップにつぶれてしまったり、悩みを相談できないまま自分は駄目だと思い込んでしまったり、激動の一年を過ごしているように見えます。そんな初任者さんたちには、自分を見直し自信を持ってもらうために、「ミニミニAR」をしていただいています。」
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今年の初任者の授業研修に私(長崎)も同行させていただき、授業後の研究協議にも参加させていただきました。その中で、感じたことは、初任者の段階では、自らの力で課題を見つけ、その解決策を探っていくのはなかなか難しいということでした。メンタリング(コーチング)の基本にある、クライアントの経験や知識が乏しい段階では、一定の「指示」や「指導」が必要であるという考え方とも、一致します。アクション・リサーチをやれば自動的に授業改善が図れるという訳ではなく、本人の経験や力量、パーソナリティーなど、様々な要因を考慮に入れて、支援していくことが必要になるということでしょう。教員研修でアクション・リサーチが効果を発揮するには、優れたメンターの存在が必須です。これは、私たちにとっての今後の重要な研究テーマです。
■10年次研修とアクション・リサーチ
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「10年経験教員研修に関しては、佐野先生のメールを本当にうなづきながら読みました。10年の教科研修はこの夏、二日連続で合計4日間ありました。その中で「よかった」、「研修が有効であった」と思えるのは、受講した教員同士が十分に日頃の実践を語り合い、課題を出し合いその手だてを考え、2,3人のグループに分かれて指導案を考え模擬授業をする時間がもてたことです。」
「中学校の受講者は5名、全員英語教員指導力向上研修も受講し実践(自信も)ある方たちだったので、5月の1回目の教科研修の時には、あまりこちらの話を受け入れようという姿勢がなく、私自身不安を感じたことでした。しかし、受講者同士の話し合いが深まるにつれ、研修の雰囲気は良くなり、5人ともとても前向きに協力して取り組んでくれました。自主的に資料を持ち寄り、情報交換をしていたりで、こちらは取り組むテーマの投げかけと時間の管理をしていれば良いという感じになりました。」
「高校の10年経験者研修は、自己課題解決を柱に、1年間の研修を組み立てています。年度当初に研修計画を立てるのですが、みなさんARの経験がありますので、RQ、仮説の設定など一連の流れがすでに自然に入っています。改めて、ARの偉大さを感じます。また、佐野先生がネットワーク通信でおっしゃっているように、経験、知識が豊富で指導力が高い方がほとんどです。それぞれの貴重な10年の軌跡を具体的に他の受講者に「自分のウリ(強み)」として示していただく機会とも捉えています。学校では若手教員の指導にその「ウリ」やセンターでの研修を生かしてもらう。若手教員を指導することによって、自己のこれまでの仕事の整理や理論の裏づけができること、そして「教科会の組織力の必要性」を意識していただけるのではないかと思っています。」
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10年の経験を積んだことで、受講者の皆さんは、それなりの自信を身につけてきていることが伺われます。一方で、 personal
theoryが固定化されてくるという側面もありそうです。やはり、受講者のニーズや特徴をしっかりと把握したうえで、研修計画を立てることが大切になるでしょう。
また、10年の経験をもとに、後輩たちのメンターの役割を果たすことを研修の一部と位置づけるという指摘は、とても重要だと思います。それによって、自らの実践について、さらなる確信と自信を得るだけでなく、同僚性の中で、教師としての自己成長が促されるような職場づくりも視野に入れておくことができるからです。アクション・リサーチを身につけた次代のリーダーが、生き生きと活躍できるアカデミックな学校づくりを目ざしたいものです。
■英語教員研修のフロンティアに
メールによるレクチャーの中でも、日本の教員養成の問題点についての議論がありました。
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「昨年丁度、カナダの教員養成課程を調査する機会に恵まれました。イギリス同様、大学院レベルでの教員養成が基本であり、大学と教育委員会と学校との連携により「資格」に相当するプロの教員を育てるシステムが構築されていました。「教員の資格を持つ人」とは具体的にどんな力がどれくらい備わった人のことなのかが気持ちよいくらい明確でした。日本の教員養成課程、教職大学院の今後も気になるところです。」
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5年間、アクション・リサーチを実施してきて、私たちは何度も、我が国の教員養成の問題を考えざるを得ませんでした。人より少し英語ができて、少し教授法や指導法を学び、2週間程度の教育実習をやれば、教員として教壇に立てる。教員という仕事は、それほど簡単なものなのかと。人の命を預かる医師が、必要な訓練とインターンシップを経て、医療の現場に立つように、もっと専門職として厳しい訓練と教育が必要ではないかと。なぜ、アクション・リサーチなどの方法を教え、自らの授業を改善する力量を、教員養成の段階から身につけさせないのだろうかと。
もちろん、長年続いてきた、我が国の教員養成が、短期間で変わるとは思えません。だとすれば、採用後の教員研修の重要性がより一層高まります。現行の制度の中で、真のプロの英語教師を育てるためには、アクション・リサーチが不可欠なツールだと私たちは考えています。しかし、我が国では、まだまだ未開拓の領域です。この試みが、日本における英語教員研修のフロンティアとなる、そのような願いと確信をもって、共に取り組んでいきたいと思っています。
皆さんからも、これまでのレクチャーの内容について、ご意見やご感想をお寄せください。
Tuesday, November 3, 2009
Friday, October 30, 2009
☆AR支援ネットワーク通信(4)「10年研修」
■はじめに
前回の通信では、日本の教師に対するpre-service trainingが不十分なので、初任者研修では、(1)
授業改善が教師の一番の仕事であること、(2) そのためには、協働的な「振り返り」で誤ったpersonal theory
からの脱却を図ること、また、(3)
クラス・コントロールも、授業の目標と結びつけることを重視すべきだと指摘しました。今回は10年研修を取り上げて考えてみたいと思います。
■基本的な考え方
授業をするには、生徒の実態やニーズを知らなければなりません。それと同様に、10年の経験がある教師を対象にした研修を計画するには、経験者の特徴を知らなければなりません。また、研修目標も、新任研修と10年経験者研修とでは、当然、異なるはずです。受講者の実態の差、また、期待の差が、研修計画に反映してくるのは当然です。
たとえば、同じ授業改善を図るにしても、初任者のように直接アドバイスを与えても、聞き入れてはくれないでしょう。経験者はすでに独自の授業観を持っているので、その認識を変えなければ授業は変わりません。認識を変えるには、まず、認識に気付かせ、変革の必要性を実感させた上で、解決方法を自ら探し、実践で改善策を試させることが大切です。また、授業改善も自分一人の作業と捕らえるのではなく、学校や地域の同僚に働きかけて協働で取り組む姿勢と技量を育てることも必要です。
それを可能にするには、研修を計画する側に、受講者と一緒に研修カリキュラムを創造するという姿勢が欲しいものです。受講者が扱って欲しいと思っているテーマを事前に調査し、それを土台に計画することが理想ですが、実際上は難しいでしょう。そこで、「経験者の学習の特徴」を生かして計画し、実施しながら観察し、また、事後に感想や意見などを聞いて次年度に生かします。いわば、研修計画のアクション・リサーチを受講者と一緒に進めるのです。ですから、まず、「経験者の学習の特徴」をまとめておきます。
■経験者の学習の特徴
Jon Roberts(1998.Language Teacher Education. Arnold)の説を参考に、自説を加えながら、研修計画の作成の際の留意点を説明します。
(1) 自分で決めたことなら学習するが、外から押し付けられたと感ずると、いこじになって拒絶する。従って、プログラムも有無を言わせず提示するのではなく、変更の可能性を残すほうが効果的である。可能なら希望に応じて変更し、受講者に共同責任を持たせる。
(2) 一般的にはベテラン教師は、経験と知識があり指導力が高い。反面、化石化を起こし、熱意をなくしている人もいる。友好的な雰囲気の中で経験や情報を交換しあうことは、知識の交流だけでなく、相互理解や同僚意識を高め、両者に意義のある活動となる。
(3) 自分の仕事に必要で、役立つ情報だと学習する。多くのベテラン教師は自分を変える必要性を感じながら、方向性が見出せないでいる。逆に言えば、小さな成功体験で情報の有効性を実感するきっかけさえあれば、改善に取り組むことが期待できる。
(4) 経験だけでは不十分で、理論的な支柱が欲しいと感じている教師は多い。だが、また、理論と現実の乖離も感じている。とすれば、たとえば言語習得の理論から授業の構成を考え、そこから自分の授業案を作成する研修が効果的だということになる。
(5) 逆に、個々の問題解決が試行錯誤の産物に終わらぬように、一般化をめざすことも必要である。「現場から理論を生みだそう!」と強調することも大切である。
■効果的な研修の枠組み
こうした「経験者の特徴」を生かさない研修は、効果が上がりません。たとえば、トピックが外から押し付けで、自分たちのニーズに対応していないと感じたり、また、学習しても教室での実践が難しく、プラスにならないと思ったりする場合です。さらには、研修の方向性が明確でないと、無駄な労力を使わされると思ってしまいます。逆に言うと、受講者が「意味のある研修」だと感ずるには、次ぎの要素が必要です。
(1) 研修目標が明確で、それぞれのプログラムが目標を反映した全体的な枠組みに位置づけされている。特に、集合研修と学校での自己研修の関連づけが明確である。
(2) 自己研修では、授業の「振り返り」で授業の進め方や生徒理解に関して問題意識を高めておいて、集合研修では同僚との意見交換や講義で、自分のpersonal
theory や生徒との関係などを見直し、解決策を探るための話し合いの機会が多くある。
(3) 集合研修での演習や講義は、一方的に情報を受けるだけでなく、モデル授業を協働で組み立てるなどする中で、同僚との仲間意識を高め、協働して問題解決を図る機会となるように計画する。
(4) 集合研修で醸成された仲間意識が研修後も持続するよう、教育センターが支援して、狭い地域での授業研究や協働的なアクション・リサーチの勉強会を計画する。
■まとめ
この稿をまとめると、経験者の研修では、「教え込む」姿勢は極力控え、意味のある研修を計画し、協働でプログラムを進めるとともに、最終的には新しい研修を創造するという姿勢で臨むことが望ましいということです。そのひとつの試みとしては、アクション・リサーチを研修の中核と位置づけ、学校での個人研修では、いつまでに何をするかスケジュールを示し、ハンドアウトで活動内容を提案します。一方、集合研修では、個人研修の報告と今後のリサーチの計画を協働で立案させ、必要な情報や支援を与えます。集合研修後は、学校や地域で授業や実践を公開しあい、ARの成果をレポートにして共有財産とすると同時に、結論の理論化や一般化の方向性も探ります。
前回の通信では、日本の教師に対するpre-service trainingが不十分なので、初任者研修では、(1)
授業改善が教師の一番の仕事であること、(2) そのためには、協働的な「振り返り」で誤ったpersonal theory
からの脱却を図ること、また、(3)
クラス・コントロールも、授業の目標と結びつけることを重視すべきだと指摘しました。今回は10年研修を取り上げて考えてみたいと思います。
■基本的な考え方
授業をするには、生徒の実態やニーズを知らなければなりません。それと同様に、10年の経験がある教師を対象にした研修を計画するには、経験者の特徴を知らなければなりません。また、研修目標も、新任研修と10年経験者研修とでは、当然、異なるはずです。受講者の実態の差、また、期待の差が、研修計画に反映してくるのは当然です。
たとえば、同じ授業改善を図るにしても、初任者のように直接アドバイスを与えても、聞き入れてはくれないでしょう。経験者はすでに独自の授業観を持っているので、その認識を変えなければ授業は変わりません。認識を変えるには、まず、認識に気付かせ、変革の必要性を実感させた上で、解決方法を自ら探し、実践で改善策を試させることが大切です。また、授業改善も自分一人の作業と捕らえるのではなく、学校や地域の同僚に働きかけて協働で取り組む姿勢と技量を育てることも必要です。
それを可能にするには、研修を計画する側に、受講者と一緒に研修カリキュラムを創造するという姿勢が欲しいものです。受講者が扱って欲しいと思っているテーマを事前に調査し、それを土台に計画することが理想ですが、実際上は難しいでしょう。そこで、「経験者の学習の特徴」を生かして計画し、実施しながら観察し、また、事後に感想や意見などを聞いて次年度に生かします。いわば、研修計画のアクション・リサーチを受講者と一緒に進めるのです。ですから、まず、「経験者の学習の特徴」をまとめておきます。
■経験者の学習の特徴
Jon Roberts(1998.Language Teacher Education. Arnold)の説を参考に、自説を加えながら、研修計画の作成の際の留意点を説明します。
(1) 自分で決めたことなら学習するが、外から押し付けられたと感ずると、いこじになって拒絶する。従って、プログラムも有無を言わせず提示するのではなく、変更の可能性を残すほうが効果的である。可能なら希望に応じて変更し、受講者に共同責任を持たせる。
(2) 一般的にはベテラン教師は、経験と知識があり指導力が高い。反面、化石化を起こし、熱意をなくしている人もいる。友好的な雰囲気の中で経験や情報を交換しあうことは、知識の交流だけでなく、相互理解や同僚意識を高め、両者に意義のある活動となる。
(3) 自分の仕事に必要で、役立つ情報だと学習する。多くのベテラン教師は自分を変える必要性を感じながら、方向性が見出せないでいる。逆に言えば、小さな成功体験で情報の有効性を実感するきっかけさえあれば、改善に取り組むことが期待できる。
(4) 経験だけでは不十分で、理論的な支柱が欲しいと感じている教師は多い。だが、また、理論と現実の乖離も感じている。とすれば、たとえば言語習得の理論から授業の構成を考え、そこから自分の授業案を作成する研修が効果的だということになる。
(5) 逆に、個々の問題解決が試行錯誤の産物に終わらぬように、一般化をめざすことも必要である。「現場から理論を生みだそう!」と強調することも大切である。
■効果的な研修の枠組み
こうした「経験者の特徴」を生かさない研修は、効果が上がりません。たとえば、トピックが外から押し付けで、自分たちのニーズに対応していないと感じたり、また、学習しても教室での実践が難しく、プラスにならないと思ったりする場合です。さらには、研修の方向性が明確でないと、無駄な労力を使わされると思ってしまいます。逆に言うと、受講者が「意味のある研修」だと感ずるには、次ぎの要素が必要です。
(1) 研修目標が明確で、それぞれのプログラムが目標を反映した全体的な枠組みに位置づけされている。特に、集合研修と学校での自己研修の関連づけが明確である。
(2) 自己研修では、授業の「振り返り」で授業の進め方や生徒理解に関して問題意識を高めておいて、集合研修では同僚との意見交換や講義で、自分のpersonal
theory や生徒との関係などを見直し、解決策を探るための話し合いの機会が多くある。
(3) 集合研修での演習や講義は、一方的に情報を受けるだけでなく、モデル授業を協働で組み立てるなどする中で、同僚との仲間意識を高め、協働して問題解決を図る機会となるように計画する。
(4) 集合研修で醸成された仲間意識が研修後も持続するよう、教育センターが支援して、狭い地域での授業研究や協働的なアクション・リサーチの勉強会を計画する。
■まとめ
この稿をまとめると、経験者の研修では、「教え込む」姿勢は極力控え、意味のある研修を計画し、協働でプログラムを進めるとともに、最終的には新しい研修を創造するという姿勢で臨むことが望ましいということです。そのひとつの試みとしては、アクション・リサーチを研修の中核と位置づけ、学校での個人研修では、いつまでに何をするかスケジュールを示し、ハンドアウトで活動内容を提案します。一方、集合研修では、個人研修の報告と今後のリサーチの計画を協働で立案させ、必要な情報や支援を与えます。集合研修後は、学校や地域で授業や実践を公開しあい、ARの成果をレポートにして共有財産とすると同時に、結論の理論化や一般化の方向性も探ります。
Sunday, October 4, 2009
AR支援ネットワーク通信(3)「初任者研修とAR」
松山大学 佐野正之
■はじめに
前回の「通信」では、personal theory から自由になって授業改善に取り組むためには、授業しながら授業をリサーチする(原因と結果を考えながら、物事を論理的に追求すること)姿勢を育てることが大切だと述べました。このことは、特に、初任者研修に当てはまります。というのは、自分の思い込みで間違った授業をしているのに、注意されずに野放しにされると、課題が化石化して、生徒から英語を学ぶ楽しさを奪い続けることになるからです。あるいは、内心の不安を隠すために、授業公開を極端に嫌う教師になってしまうかもしれません。いずれにしても、早めの手当てが必要です。こうした危険が顕在化しているのは、日本の教員養成に一因があります。それは、フィンランドや英国の教員養成と比較すると一目瞭然です。英国の例を紹介しましょう。
■英国の教員養成
英国では教員養成は大学院レベルで行われるのが普通です。しかも、在学期間の3分の2は複数の実習校での研修に当てるように法律で定められていて、そこでは、ベテラン教師の授業観察はもちろん、マイクロ・ティーチングでの指導技術の向上や、段階をおった実習など、細かな計画が大学と実習校の緊密な連携でなされています。特に、授業実践のあとでは、メンター(教育実習生の指導にあたるベテラン教師で、他の校務は一切免除されている)と大学の指導教官による個人指導が徹底的に行われ、ポートフォリオやアクション・リサーチで自分のpersonal theory を見直し、実践的な知識や技量を磨く機会がふんだんに与えられるのです。さらに、教員の資格は国家資格ですから、教科の知識や技量だけでなく、クラス・マネジメントから動機付けの方法や評価、はては、同僚や保護者との対応まで国で定めたレベルに達しているかが調査され、その上で免許状が出されるのです。2週間や3週間の教育実習でお茶を濁す日本とは大違いです。
もちろん、日本でも初任者の指導に当たるベテラン教師はいるのですが、その先生自身が自分の仕事で手一杯な現状では、多くのことは期待できません。そうなると、教育センターでの初任者研修が重要です。プロの英語教師として、自立して成長してゆくためには、教育センターの働きかけが求められているのです。実際の研修内容は多岐に渡るので、ここでは授業改善(=personal theory からの脱却)と、クラス・マネジメントについてだけ説明します。この2つが日本型の教員養成では、最も身につかない能力だからです。
■授業改善:Personal theory からの脱却
(1) 実態報告と意見交換。
教室でのsurvivalに不安を感じている人は、personal
theoryからの脱却も、その後の成長も望めません。そこで、まず、初任者同士で悩みを交換させ、悩んでいるのは自分だけではないことに気づかせます。大学で習った教授法が通用しないとか、英文和訳でさえもうまくいかないとか、悩みは雑多でしょう。そこで、教案を示しながら、どのように教え、どこで問題が生じたか実態を報告させます。そのとき、指導主事は善悪の判断をせずに悩みを聞いてやり、仲間の実践や話し合いから解決方法を自分で見つけるように励まします。そこでの気付きや、その後の実践をポートフォリオに記録させ、また、自分の英語学習歴も書かせて、personal
theory との関連を考察させ、発表させます。
(2)理論は実践と結びつけて
指導要領や評価についての講義は必要なインプットです。ただ、それが生きて働く力となるには、理論と実践を結びつける道筋を示してやることが必要です。たとえば、他の初任者と協働で、評価の理論と教材とを結び付けた指導案を作り、モデル授業で練習させ、授業改善に繋がるかを話し合わせます。その上で実際の教室で試し、生徒の行動や自分の認識にどのような変化を生んだか、ポートフォリオに記録させます。結局、理論は単なる知識ではなく、実践と結びつけて利用するもので、教師は常に新しい情報を利用し、自分の指導力を向上させる責任があるのだという意識を育てます。
(3) 観察やビデオによる授業研究
ベテラン教師の授業観察や、ビデオでの授業研究もpersonal
theoryからの脱却に役立つインプットです。複数のモデルを見せ、話しあいの時間をとります。ひとつに偏ると、表面の物まねに終わるからです。また、自分の授業をビデオで紹介するときは、初期は撮る箇所を限定し、指導力の伸びに応じて撮る時間を延ばしてゆき、最後に授業の全体像が完成するようにします。この点は、アクション・リサーチとも関連するので後述します。
■クラス・マネジメント
(1)授業とクラス・マネジメント
クラス・マネジメントというと、生徒を押さえつけるテクニークと誤解されがちですが、実は、より「分かる」「楽しい」「力のつく」授業にするために、生徒をどのように授業に参加させてゆくか、そのための方策を捜すことなのです。ですから、授業の目標を明確にし、生徒とshare
することが第一歩です。次ぎに、その目標や時間に応じて、全体学習、グループ学習、個人学習などの形態を適切に組み合わせて使用するのです。そのそれぞれに指導上の留意点があることに気付かせ、習得させます。
(2)教室のムード作り
効果的な授業には、教室に前向きな雰囲気があることが必要です。しかし、それは当初から用意されているわけではありません。生徒との相互理解を深めるなかで、ということは、教師もまた、英語にかける思いや、自分が生徒だったころの英語学習などを積極的に話してやり、英語や自分に関心を持ってもらうように努力する中で、次第に育成していくものなのです。生徒に迎合したり、逆に、教師の権威を振り回したりせずに、友好的でかつ責任のある態度を持って接することが大切です。特に、孤立している子には、まず、教師が知り合おうとする姿勢を示し、それがクラス全体に広がることを期待します。
■まとめ
指導法の改善とクラス・コントロールは一体だということがお分かりいただいたと思います。一度に完璧な授業は期待せずに、ワンステップずつ、着実に力を伸ばしていけるように、見守っていきたいものです。
第1期の6月末までは、指導法については挨拶、復習、導入までに改善のポイントを絞り、コントロールに関しては、生徒の名前を覚え、個人的な対話を増やしてクラスに明るい雰囲気を作るという目標を指定し、それまでの取り組みをポートフォリオに記入し、全体講習の場で発表します。また、各学校の指導教員にも期ごとの目標を通知し、その点に集中して指導してもらうようにします。第2期には、第1期で達成できなかった点も含めて、教科書本文の指導と言語項目の定着を改善のポイントにし、コントロールでは、いろいろな学習形態を取り入れ変化をつけることを目標にします。第3期では、まとめの言語活動と評価、自己表現活動への積極的な参加などを改善の目標に設定することが考えられます。
このようにして、一通り指導法やコントロールの方法が習得できた段階で、今度は授業全体をビデオに撮り、問題点を自分で発見し、それに対する対策を講じて実践するミニ・アクション・リサーチを実施します。その結果を発表すると同時に、自分の英語指導に対する考え方が4月からどう変化したかを記録させて、次年度の目標と具体的な方策をレポートさせて初任研修を終わります。
■はじめに
前回の「通信」では、personal theory から自由になって授業改善に取り組むためには、授業しながら授業をリサーチする(原因と結果を考えながら、物事を論理的に追求すること)姿勢を育てることが大切だと述べました。このことは、特に、初任者研修に当てはまります。というのは、自分の思い込みで間違った授業をしているのに、注意されずに野放しにされると、課題が化石化して、生徒から英語を学ぶ楽しさを奪い続けることになるからです。あるいは、内心の不安を隠すために、授業公開を極端に嫌う教師になってしまうかもしれません。いずれにしても、早めの手当てが必要です。こうした危険が顕在化しているのは、日本の教員養成に一因があります。それは、フィンランドや英国の教員養成と比較すると一目瞭然です。英国の例を紹介しましょう。
■英国の教員養成
英国では教員養成は大学院レベルで行われるのが普通です。しかも、在学期間の3分の2は複数の実習校での研修に当てるように法律で定められていて、そこでは、ベテラン教師の授業観察はもちろん、マイクロ・ティーチングでの指導技術の向上や、段階をおった実習など、細かな計画が大学と実習校の緊密な連携でなされています。特に、授業実践のあとでは、メンター(教育実習生の指導にあたるベテラン教師で、他の校務は一切免除されている)と大学の指導教官による個人指導が徹底的に行われ、ポートフォリオやアクション・リサーチで自分のpersonal theory を見直し、実践的な知識や技量を磨く機会がふんだんに与えられるのです。さらに、教員の資格は国家資格ですから、教科の知識や技量だけでなく、クラス・マネジメントから動機付けの方法や評価、はては、同僚や保護者との対応まで国で定めたレベルに達しているかが調査され、その上で免許状が出されるのです。2週間や3週間の教育実習でお茶を濁す日本とは大違いです。
もちろん、日本でも初任者の指導に当たるベテラン教師はいるのですが、その先生自身が自分の仕事で手一杯な現状では、多くのことは期待できません。そうなると、教育センターでの初任者研修が重要です。プロの英語教師として、自立して成長してゆくためには、教育センターの働きかけが求められているのです。実際の研修内容は多岐に渡るので、ここでは授業改善(=personal theory からの脱却)と、クラス・マネジメントについてだけ説明します。この2つが日本型の教員養成では、最も身につかない能力だからです。
■授業改善:Personal theory からの脱却
(1) 実態報告と意見交換。
教室でのsurvivalに不安を感じている人は、personal
theoryからの脱却も、その後の成長も望めません。そこで、まず、初任者同士で悩みを交換させ、悩んでいるのは自分だけではないことに気づかせます。大学で習った教授法が通用しないとか、英文和訳でさえもうまくいかないとか、悩みは雑多でしょう。そこで、教案を示しながら、どのように教え、どこで問題が生じたか実態を報告させます。そのとき、指導主事は善悪の判断をせずに悩みを聞いてやり、仲間の実践や話し合いから解決方法を自分で見つけるように励まします。そこでの気付きや、その後の実践をポートフォリオに記録させ、また、自分の英語学習歴も書かせて、personal
theory との関連を考察させ、発表させます。
(2)理論は実践と結びつけて
指導要領や評価についての講義は必要なインプットです。ただ、それが生きて働く力となるには、理論と実践を結びつける道筋を示してやることが必要です。たとえば、他の初任者と協働で、評価の理論と教材とを結び付けた指導案を作り、モデル授業で練習させ、授業改善に繋がるかを話し合わせます。その上で実際の教室で試し、生徒の行動や自分の認識にどのような変化を生んだか、ポートフォリオに記録させます。結局、理論は単なる知識ではなく、実践と結びつけて利用するもので、教師は常に新しい情報を利用し、自分の指導力を向上させる責任があるのだという意識を育てます。
(3) 観察やビデオによる授業研究
ベテラン教師の授業観察や、ビデオでの授業研究もpersonal
theoryからの脱却に役立つインプットです。複数のモデルを見せ、話しあいの時間をとります。ひとつに偏ると、表面の物まねに終わるからです。また、自分の授業をビデオで紹介するときは、初期は撮る箇所を限定し、指導力の伸びに応じて撮る時間を延ばしてゆき、最後に授業の全体像が完成するようにします。この点は、アクション・リサーチとも関連するので後述します。
■クラス・マネジメント
(1)授業とクラス・マネジメント
クラス・マネジメントというと、生徒を押さえつけるテクニークと誤解されがちですが、実は、より「分かる」「楽しい」「力のつく」授業にするために、生徒をどのように授業に参加させてゆくか、そのための方策を捜すことなのです。ですから、授業の目標を明確にし、生徒とshare
することが第一歩です。次ぎに、その目標や時間に応じて、全体学習、グループ学習、個人学習などの形態を適切に組み合わせて使用するのです。そのそれぞれに指導上の留意点があることに気付かせ、習得させます。
(2)教室のムード作り
効果的な授業には、教室に前向きな雰囲気があることが必要です。しかし、それは当初から用意されているわけではありません。生徒との相互理解を深めるなかで、ということは、教師もまた、英語にかける思いや、自分が生徒だったころの英語学習などを積極的に話してやり、英語や自分に関心を持ってもらうように努力する中で、次第に育成していくものなのです。生徒に迎合したり、逆に、教師の権威を振り回したりせずに、友好的でかつ責任のある態度を持って接することが大切です。特に、孤立している子には、まず、教師が知り合おうとする姿勢を示し、それがクラス全体に広がることを期待します。
■まとめ
指導法の改善とクラス・コントロールは一体だということがお分かりいただいたと思います。一度に完璧な授業は期待せずに、ワンステップずつ、着実に力を伸ばしていけるように、見守っていきたいものです。
第1期の6月末までは、指導法については挨拶、復習、導入までに改善のポイントを絞り、コントロールに関しては、生徒の名前を覚え、個人的な対話を増やしてクラスに明るい雰囲気を作るという目標を指定し、それまでの取り組みをポートフォリオに記入し、全体講習の場で発表します。また、各学校の指導教員にも期ごとの目標を通知し、その点に集中して指導してもらうようにします。第2期には、第1期で達成できなかった点も含めて、教科書本文の指導と言語項目の定着を改善のポイントにし、コントロールでは、いろいろな学習形態を取り入れ変化をつけることを目標にします。第3期では、まとめの言語活動と評価、自己表現活動への積極的な参加などを改善の目標に設定することが考えられます。
このようにして、一通り指導法やコントロールの方法が習得できた段階で、今度は授業全体をビデオに撮り、問題点を自分で発見し、それに対する対策を講じて実践するミニ・アクション・リサーチを実施します。その結果を発表すると同時に、自分の英語指導に対する考え方が4月からどう変化したかを記録させて、次年度の目標と具体的な方策をレポートさせて初任研修を終わります。
AR支援ネットワーク通信(2)「Personal theory からの脱却」
松山大学 佐野正之
■はじめに
前回の通信(1)では,教師が授業に責任を持って自主的に授業改善を目指すためには、
「リサーチのownership」を感じながら研修に向かうことが大切で、ARもそのための有力な手段だと説明しました。それでは、ARを取り入れさえすれば、万事がうまくいくでしょうか。決してそういうわけではありません。まず、「授業をきちんとするには、リサーチ(=原因と結果の関係を深く考え、論理的に追求する)が必要だ」という認識がなければなりません。ところが、これは決して容易なことではありません。なぜなら、それは自分の信じ込んできたpersonal
theory を捨てることにつながりかねないからです。Personal theory
が全部いけないというわけではないのですが、時代遅れになったり、誤って理解していることがあるので、それを見直すことが必要なのです。
■Personal theory とは
人それぞれに、personal theory(自分なりの指導法についての考え方)を持っています。Theoryとは何でしょうか。「OO教授法」という場合、その教授法に特有な「言語観」「学習観」「指導観」があります。たとえば、Audio-lingual Approachでは、「言語観」は表に現れた言語の組み立てを重視し、「学習観」は組み立ての基礎から繰り返しの練習で身につけさせ、「指導観」は、習慣形成を外部からリードするという発想があります。それらが結び合ってひとつの教授法になっているのです。一般の教員は、自分の教授法を詳しくは意識していません。ところが、無意識のうちに、「英語の基礎は文法だ」という言語観や、「文法習得にはドリルが大切」という学習観や、「教師の仕事は文法を分かるように説明することだ」という指導観を身につけているのです。これがpersonal theory です。
では、このpersonal theoryはどこからきたのでしょうか。多くの場合、それは英語の知識と一緒に身につけたものなのです。中学や高校で英語を学習したときに、気づかぬうちに、英語の指導法までも習っていたのです。これは無意識的ですが、隠れたところで強力に作用していて、「これこそ、最も自然な、正しい指導法だ」と信じ込ませてしまいます。ですから、文法・訳読式で教えられた人は、途中でよほどの出来事があって改信(文字どうり、宗教=信じてきた価値観を変えることを)しない限り、コミュニケーション中心の授業は不自然で、無理な指導法に思えてしまいます。これは英語力には関係ありません。いかに英語が達者でも、personal
theory に支配されている限り、その人の授業は相変わらず、英文和訳を中心に進むことになるのです。ですから、自分のpersonal theory を意識的に捕らえ直し、もし、それが現在の英語教育の目標に照らして適切でなければ、personal theory から脱却し、客観的に「自分の授業をリサーチすること」ができる教員を育てることが、教員研修の重要な目標になるのです。
■講義だけでは不足なわけ
Personal theoryからの脱却は、何もARをしなくとも、講義を聴いて自分の思い込みの誤りに気づけば、それでよいという反論があるでしょう。しかし、考えてもみてください。あなたは喫煙の害を説かれただけで、タバコがやめられますか。メタボの危険性を告げられたら、すぐに晩酌がやめられますか。やめられる人もいるでしょう。特に、自分でうすうす健康に不安を感じていた人には、これが引き金になって改善へと進むことはあると思います。しかし、大部分の人は、知識は与えられても、それを自分に都合よく解釈して、結局はこれまでの悪習を断ち切れないのです。たとえば、メタボの危険性を指摘されて久しい私は、「確かにメタボは悪い。でも、医師の話しでは、ストレスもまた、メタボ以上に健康の害になるということであった。だったら、ストレス解消のための酒はless
evilだ。飲みすぎはよくはない。でも、どれくらいが飲みすぎかは個人差がある」と手前勝手の解釈をして、これまでと変わらぬ生活を送るはめになります。
同じことが、優れた授業実践を見たときにも起こります。「生徒が優秀で、やる気があるからできたことで、自分のクラスでは無理だ」と自分の都合のよいように解釈してしまうのです。講義にしても、モデル授業にしても、そこに受講者の問題意識との関わりがなければ、「馬の耳に念仏」で終わります。これを防ぐには、事前に自分の授業を振り返って問題意識を持たせてからインプットを与え、具体的には、多様な形のモデル授業を見せ、それぞれの背後にある発想や、自分の実践に生かせそうな箇所を選ばせ、実施した場合に期待される効果や問題点などについて徹底的に同僚と話し合わせることによって、自分の偏向に気づかせると同時に、解決の糸口を探らせることが大切です。
■まとめ
「リサーチのownership」という視点からすれば、ポートフォリオもまた役立ちます。授業の問題点について、先輩教師と話しあうことで自分の偏向に気づき、実践の過程で生徒の変化だけでなく、自分の変化も記録していくことによって、personal theory からの脱却が可能です。しかし、メンターからの支援が恒常的に得られない状態では、「振り返り」だけでは周囲が見えなくなり、社会との関わりを見失いがちです。適切なアドバイスが期待できない場合は、生徒の力も借りながら自分で対策や実践の評価ができるARのほうが実際的です。このような考えから、次回は、初年者研修と10年次研修を取り上げ、それぞれにアクション・リサーチをどのように位置づけるかを説明します。
■はじめに
前回の通信(1)では,教師が授業に責任を持って自主的に授業改善を目指すためには、
「リサーチのownership」を感じながら研修に向かうことが大切で、ARもそのための有力な手段だと説明しました。それでは、ARを取り入れさえすれば、万事がうまくいくでしょうか。決してそういうわけではありません。まず、「授業をきちんとするには、リサーチ(=原因と結果の関係を深く考え、論理的に追求する)が必要だ」という認識がなければなりません。ところが、これは決して容易なことではありません。なぜなら、それは自分の信じ込んできたpersonal
theory を捨てることにつながりかねないからです。Personal theory
が全部いけないというわけではないのですが、時代遅れになったり、誤って理解していることがあるので、それを見直すことが必要なのです。
■Personal theory とは
人それぞれに、personal theory(自分なりの指導法についての考え方)を持っています。Theoryとは何でしょうか。「OO教授法」という場合、その教授法に特有な「言語観」「学習観」「指導観」があります。たとえば、Audio-lingual Approachでは、「言語観」は表に現れた言語の組み立てを重視し、「学習観」は組み立ての基礎から繰り返しの練習で身につけさせ、「指導観」は、習慣形成を外部からリードするという発想があります。それらが結び合ってひとつの教授法になっているのです。一般の教員は、自分の教授法を詳しくは意識していません。ところが、無意識のうちに、「英語の基礎は文法だ」という言語観や、「文法習得にはドリルが大切」という学習観や、「教師の仕事は文法を分かるように説明することだ」という指導観を身につけているのです。これがpersonal theory です。
では、このpersonal theoryはどこからきたのでしょうか。多くの場合、それは英語の知識と一緒に身につけたものなのです。中学や高校で英語を学習したときに、気づかぬうちに、英語の指導法までも習っていたのです。これは無意識的ですが、隠れたところで強力に作用していて、「これこそ、最も自然な、正しい指導法だ」と信じ込ませてしまいます。ですから、文法・訳読式で教えられた人は、途中でよほどの出来事があって改信(文字どうり、宗教=信じてきた価値観を変えることを)しない限り、コミュニケーション中心の授業は不自然で、無理な指導法に思えてしまいます。これは英語力には関係ありません。いかに英語が達者でも、personal
theory に支配されている限り、その人の授業は相変わらず、英文和訳を中心に進むことになるのです。ですから、自分のpersonal theory を意識的に捕らえ直し、もし、それが現在の英語教育の目標に照らして適切でなければ、personal theory から脱却し、客観的に「自分の授業をリサーチすること」ができる教員を育てることが、教員研修の重要な目標になるのです。
■講義だけでは不足なわけ
Personal theoryからの脱却は、何もARをしなくとも、講義を聴いて自分の思い込みの誤りに気づけば、それでよいという反論があるでしょう。しかし、考えてもみてください。あなたは喫煙の害を説かれただけで、タバコがやめられますか。メタボの危険性を告げられたら、すぐに晩酌がやめられますか。やめられる人もいるでしょう。特に、自分でうすうす健康に不安を感じていた人には、これが引き金になって改善へと進むことはあると思います。しかし、大部分の人は、知識は与えられても、それを自分に都合よく解釈して、結局はこれまでの悪習を断ち切れないのです。たとえば、メタボの危険性を指摘されて久しい私は、「確かにメタボは悪い。でも、医師の話しでは、ストレスもまた、メタボ以上に健康の害になるということであった。だったら、ストレス解消のための酒はless
evilだ。飲みすぎはよくはない。でも、どれくらいが飲みすぎかは個人差がある」と手前勝手の解釈をして、これまでと変わらぬ生活を送るはめになります。
同じことが、優れた授業実践を見たときにも起こります。「生徒が優秀で、やる気があるからできたことで、自分のクラスでは無理だ」と自分の都合のよいように解釈してしまうのです。講義にしても、モデル授業にしても、そこに受講者の問題意識との関わりがなければ、「馬の耳に念仏」で終わります。これを防ぐには、事前に自分の授業を振り返って問題意識を持たせてからインプットを与え、具体的には、多様な形のモデル授業を見せ、それぞれの背後にある発想や、自分の実践に生かせそうな箇所を選ばせ、実施した場合に期待される効果や問題点などについて徹底的に同僚と話し合わせることによって、自分の偏向に気づかせると同時に、解決の糸口を探らせることが大切です。
■まとめ
「リサーチのownership」という視点からすれば、ポートフォリオもまた役立ちます。授業の問題点について、先輩教師と話しあうことで自分の偏向に気づき、実践の過程で生徒の変化だけでなく、自分の変化も記録していくことによって、personal theory からの脱却が可能です。しかし、メンターからの支援が恒常的に得られない状態では、「振り返り」だけでは周囲が見えなくなり、社会との関わりを見失いがちです。適切なアドバイスが期待できない場合は、生徒の力も借りながら自分で対策や実践の評価ができるARのほうが実際的です。このような考えから、次回は、初年者研修と10年次研修を取り上げ、それぞれにアクション・リサーチをどのように位置づけるかを説明します。
Wednesday, September 16, 2009
AR支援ネットワーク通信(1) 「授業とリサーチ」
松山大学 佐野正之
■はじめに
皆さん、今日は。この度は、AR支援ネットワークに参加いただきありがとうございます。「ネットワーク通信」を始めるに当たり、いくつかお断りしておくことがあります。まず、この通信で流す内容は、アクション・リサーチを支援してきた経験から私が大切だと思うことを説明するだけのことであって、それがそのまま、皆さんの置かれた状況で作用するかどうかは分かりません。すなわち、私が自信たっぷりに断言しても、それを鵜呑みにせず、自分の状況に置き換え判断していただかなければならないということです。皆さんの判断があってはじめて、私の説明は意味を持ってくるのです。
第2点は、私の主張が学会の主流を占める理論や、文部科学省の説明と矛盾することがあるだろうということです。と言っても、私は学会や文部科学省に恨みがあるわけではありません。ただ、学問的真実を追求する研究者の立場や、政治状況にも配慮しなければならない文部行政の立場と、いきいきとした教育実践に取り組む方策を追求するアクション・リサーチとでは、おのずと立場が異なり、見方が違ってきます。その結果、批判的な論を展開することもあります。この点もまた、ご自分の教育観から判断してください。この通信は、私からの皆さんへの問いかけであり、対話の糸口にすぎないのですから。
■なぜ、ARなのか
それにしても、なぜ、私は「研修にアクション・リサーチを!」とこだわるのでしょうか。実は、私は「アクション・リサーチ」にこだわってはいません。ポートフォリオでの振り返りでも、発想を大切にする授業研究でも同じ意味があると思っています。私がこだわるのは、「教師の主体性」なのです。授業の問題を自分の責任として捕らえ、解決しようと自主的に努力するのでなければ、また、英語の知識や技能だけでなく、生徒の人としての成長にも関わろうとする教師でなければ、「プロの教師」とはいえないと私は思うのです。極端に言えば、授業の責任が取れなければ、一人前の教師ではないのです。ということは、そのための教員研修は、自分が選んだ問題の解決を探ることを中心にすべきです。「リサーチのownership」が確保されない研修は、教師の育成には欠けた部分があるのです。
この点で参考になるのは、「つくば研修」です。全国から優秀な教員を集め、「つくばプリズン」と呼ばれるほど集中した合宿研修を、きら星のような講師陣をそろえて実施したことで有名です。皆さんの中にも、参加された方が居られるでしょう。研修の終了時には、はちきれそうな情報と改革の情熱に燃えて現場に戻られたと思います。だが、この思いは、実際に日本の英語教育を変えたでしょうか。確かに、各地で英語教育のリーダーとして活躍されている方は多くおられます。しかし、その人たちの言動に、「つくば研修」で得たことがどれほど生きているでしょうか。皮肉な見方かもしれませんが、実は、それほど生きはいないのではないかと私は思います。理由は、研修で与えられた情報やテクニークは、受講者にとっては外から与えられたものであり、当然、よほどの偶然が作用しない限り、「リサーチのownership」が持てなかったからです。「自分の問題意識」に基づかないかぎり、情報も情熱も、現実の壁に囲まれるとくすぶりながらも消えてしまうのです。
■県レベルでは何ができるか
もし、それが本当なら、もっと劣悪な条件で実施しなければならない県レベルの初任者研修や10年次研修はどうすればよいのでしょうか。「法律だから仕方がない」と、成果を検証もせずに同じ計画で進めてよいのでしょうか。確かに、時間も集中度も講師も、「つくば研修」とは比較になりません。しかし、県レベルの研修は、「つくば研修」にはない長所を持っています。それは、「授業しながらの研修」だということです。具体的には、自分の授業の改善を目指して、問題を発見し、自分なりの対策で解決を目指し、それを実際に教室で試すことで、「リサーチのownership」が持ちやすいのです。この長所を生かさなければ大きな損失です。さらに、「授業しながらの研修」だからこそできる訓練があります。それは、「授業をするには、リサーチが欠かせない」という意識を徹底することです。
「授業しながら、リサーチなんて!」と思われるかもしれません。校務と授業で精一杯なのに、その上、研究者がやる「科学的リサーチ」などできるわけがありません。ただ、「リサーチ」という言葉は、もっと広い意味でも使われていて、たとえば、Stern(1983)
は「(原因や結果を考えながら)ものごとを論理的に追求する作業」と定義しています。この意味からすれば、「今日は成功だ!」「生徒が乗らず失敗だ!」と無責任な評価を繰り返す教師は、リサーチをしているとは言えません。逆に、「今日のリスニングはうまくいかなかった。導入が間違っていたのか?明日は、そこを変えて、もう少し発音練習にも時間を掛けてみよう」と考える教師がいたとすれば、それは授業をしながら、リサーチをしているのです。
■まとめると
アクション・リサーチの「リサーチ」は、科学的なリサーチではなく、「結果と原因を考えながら、論理的に問題を追及する」という意味でのリサーチです。計画を立てて授業を実施し、指導中に、また事後に振り返り、反省を次に生かすことができれば、ARで一番重要な部分を行っていることになります。だから、「授業をすることは、リサーチすることだ」と断言してもよいのです。特に、初任者研修ではこの認識を強調することが大切ですし、10年次研修では、体験を振り返り、問題を分析して、解決方法を共同で探ることでこの認識を再確認することが必要でしょう。
次回の通信では、この2つの研修の特徴とそこでのアクション・リサーチの進め方を説明することにします。その後、松山大学で私が実施しているゼミの様子を来年の1月まで回を追ってお知らせしますので、ARについて理解と同時に、教員研修にどう生かすかを考えて欲しいと思います。そして、「研修のAR」ができる主事になって欲しいと思います。皆さんからの質問やご意見をお待ちしています。
それでは、また。
■はじめに
皆さん、今日は。この度は、AR支援ネットワークに参加いただきありがとうございます。「ネットワーク通信」を始めるに当たり、いくつかお断りしておくことがあります。まず、この通信で流す内容は、アクション・リサーチを支援してきた経験から私が大切だと思うことを説明するだけのことであって、それがそのまま、皆さんの置かれた状況で作用するかどうかは分かりません。すなわち、私が自信たっぷりに断言しても、それを鵜呑みにせず、自分の状況に置き換え判断していただかなければならないということです。皆さんの判断があってはじめて、私の説明は意味を持ってくるのです。
第2点は、私の主張が学会の主流を占める理論や、文部科学省の説明と矛盾することがあるだろうということです。と言っても、私は学会や文部科学省に恨みがあるわけではありません。ただ、学問的真実を追求する研究者の立場や、政治状況にも配慮しなければならない文部行政の立場と、いきいきとした教育実践に取り組む方策を追求するアクション・リサーチとでは、おのずと立場が異なり、見方が違ってきます。その結果、批判的な論を展開することもあります。この点もまた、ご自分の教育観から判断してください。この通信は、私からの皆さんへの問いかけであり、対話の糸口にすぎないのですから。
■なぜ、ARなのか
それにしても、なぜ、私は「研修にアクション・リサーチを!」とこだわるのでしょうか。実は、私は「アクション・リサーチ」にこだわってはいません。ポートフォリオでの振り返りでも、発想を大切にする授業研究でも同じ意味があると思っています。私がこだわるのは、「教師の主体性」なのです。授業の問題を自分の責任として捕らえ、解決しようと自主的に努力するのでなければ、また、英語の知識や技能だけでなく、生徒の人としての成長にも関わろうとする教師でなければ、「プロの教師」とはいえないと私は思うのです。極端に言えば、授業の責任が取れなければ、一人前の教師ではないのです。ということは、そのための教員研修は、自分が選んだ問題の解決を探ることを中心にすべきです。「リサーチのownership」が確保されない研修は、教師の育成には欠けた部分があるのです。
この点で参考になるのは、「つくば研修」です。全国から優秀な教員を集め、「つくばプリズン」と呼ばれるほど集中した合宿研修を、きら星のような講師陣をそろえて実施したことで有名です。皆さんの中にも、参加された方が居られるでしょう。研修の終了時には、はちきれそうな情報と改革の情熱に燃えて現場に戻られたと思います。だが、この思いは、実際に日本の英語教育を変えたでしょうか。確かに、各地で英語教育のリーダーとして活躍されている方は多くおられます。しかし、その人たちの言動に、「つくば研修」で得たことがどれほど生きているでしょうか。皮肉な見方かもしれませんが、実は、それほど生きはいないのではないかと私は思います。理由は、研修で与えられた情報やテクニークは、受講者にとっては外から与えられたものであり、当然、よほどの偶然が作用しない限り、「リサーチのownership」が持てなかったからです。「自分の問題意識」に基づかないかぎり、情報も情熱も、現実の壁に囲まれるとくすぶりながらも消えてしまうのです。
■県レベルでは何ができるか
もし、それが本当なら、もっと劣悪な条件で実施しなければならない県レベルの初任者研修や10年次研修はどうすればよいのでしょうか。「法律だから仕方がない」と、成果を検証もせずに同じ計画で進めてよいのでしょうか。確かに、時間も集中度も講師も、「つくば研修」とは比較になりません。しかし、県レベルの研修は、「つくば研修」にはない長所を持っています。それは、「授業しながらの研修」だということです。具体的には、自分の授業の改善を目指して、問題を発見し、自分なりの対策で解決を目指し、それを実際に教室で試すことで、「リサーチのownership」が持ちやすいのです。この長所を生かさなければ大きな損失です。さらに、「授業しながらの研修」だからこそできる訓練があります。それは、「授業をするには、リサーチが欠かせない」という意識を徹底することです。
「授業しながら、リサーチなんて!」と思われるかもしれません。校務と授業で精一杯なのに、その上、研究者がやる「科学的リサーチ」などできるわけがありません。ただ、「リサーチ」という言葉は、もっと広い意味でも使われていて、たとえば、Stern(1983)
は「(原因や結果を考えながら)ものごとを論理的に追求する作業」と定義しています。この意味からすれば、「今日は成功だ!」「生徒が乗らず失敗だ!」と無責任な評価を繰り返す教師は、リサーチをしているとは言えません。逆に、「今日のリスニングはうまくいかなかった。導入が間違っていたのか?明日は、そこを変えて、もう少し発音練習にも時間を掛けてみよう」と考える教師がいたとすれば、それは授業をしながら、リサーチをしているのです。
■まとめると
アクション・リサーチの「リサーチ」は、科学的なリサーチではなく、「結果と原因を考えながら、論理的に問題を追及する」という意味でのリサーチです。計画を立てて授業を実施し、指導中に、また事後に振り返り、反省を次に生かすことができれば、ARで一番重要な部分を行っていることになります。だから、「授業をすることは、リサーチすることだ」と断言してもよいのです。特に、初任者研修ではこの認識を強調することが大切ですし、10年次研修では、体験を振り返り、問題を分析して、解決方法を共同で探ることでこの認識を再確認することが必要でしょう。
次回の通信では、この2つの研修の特徴とそこでのアクション・リサーチの進め方を説明することにします。その後、松山大学で私が実施しているゼミの様子を来年の1月まで回を追ってお知らせしますので、ARについて理解と同時に、教員研修にどう生かすかを考えて欲しいと思います。そして、「研修のAR」ができる主事になって欲しいと思います。皆さんからの質問やご意見をお待ちしています。
それでは、また。
AR支援ネットワーク通信 バックナンバーの掲載
これまでに配信してきた通信のバックナンバーを掲載します。まずは、第1部「教員研修とアクション・リサーチ」(2008年7月~9月、1号~5号)を順次掲載していきます。
Sunday, September 6, 2009
AR支援ネットワーク通信 第3部を配信中
「英語教員のためのアクション・リサーチ支援ネットワーク」では、これまで登録メンバーを対象に、メールでの通信を配信してきました。
第1部 「教員研修とアクション・リサーチ」 1号~5号
第2部 「ARS@MR(松山大学ARゼミ)の実践報告」 6号~23号
現在、第3部 「小学校英語活動」を配信中です。第3部の最終的なゴールはARを使って、小学校英語活動を改善する取組を進めることです。しかし、まだ小学校英語活動自体の実践が少なく、課題や不安を抱える方が多いことから、小学校英語活動の効果的な進め方について、佐野先生から問題提起していただきながら、小学校英語活動の進め方についての考え方や小学校の先生方の指導力を高める校内研修の在り方などについて、学んでいます。
関心のある方は、ぜひ、メンバー登録していただき。一緒に小学校英語活動について考えていければと思っています。
登録はこちらから
第1部 「教員研修とアクション・リサーチ」 1号~5号
第2部 「ARS@MR(松山大学ARゼミ)の実践報告」 6号~23号
現在、第3部 「小学校英語活動」を配信中です。第3部の最終的なゴールはARを使って、小学校英語活動を改善する取組を進めることです。しかし、まだ小学校英語活動自体の実践が少なく、課題や不安を抱える方が多いことから、小学校英語活動の効果的な進め方について、佐野先生から問題提起していただきながら、小学校英語活動の進め方についての考え方や小学校の先生方の指導力を高める校内研修の在り方などについて、学んでいます。
関心のある方は、ぜひ、メンバー登録していただき。一緒に小学校英語活動について考えていければと思っています。
登録はこちらから
Sunday, January 11, 2009
「謹賀新年と日本の英語教育」
松山大学 佐野正之
おめでとうございます
みなさま、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年の6月から通信を開始しましたので、丁度、半年が経過したことになります。通信が、アクション・リサーチの理解や実践に少しはお役にたったでしょうか。こちらとしては見えない相手に呼びかけているので、それなりに苦労もありますが、反面、アウトプットを期待するにはその何倍ものインプットが必要だと理解しておりますので、今年も私の考えや多くの情報を通信でお知らせしたいと思っています。そこから、よりインターアクティブな関係が構築されることを期待して、年頭の挨拶といたします。
初売りの福袋:「なぜ、アクション・リサーチなのか」
さて、今年の初売りは、昨年11月29日の「アクション・リサーチ交流会」で私がした基調講演の紹介です。これは年頭の「福袋」ですから、当然、中身が多く、必ずしも、欲しいものだけ入っているとは限りません。ご了解のほどお願いいたします。
*これでよいのか日本の英語教育
最近読んだ論文(斎田.2008.JACET Journal.No.47)に興味深い調査結果が載っていました。日本の大学生の平均的な英語力を「ヨーロッパ共通参照枠」で検証すると、「文法力」や「語彙力」は辛うじてヨーロッパの高校生なみだが、「読む力」「書く力」は中学生なみ、「聞く力」に至っては小学生なみだというのです。なんとも厳しい結果ではありませんか。ただ、「聞く力」については、音声が聞きなれた米語ではなく英語だということ、また、機器の操作で、聞くことに集中できなかったなどの事実を勘案する必要はあるでしょうが。
また、被験者は一つの国立大学の学生なので、結果を一般化して「日本の大学生」として論ずるのは不適切だという批判も当然可能です。だが、この学生たちの平均的な語彙サイズが3,700語程度であり、しかもきれいな正規分布をしていることから、日本の大学生の一般的な英語力とみなして、大きな違いはなさそうです。とすると、日本の英語教育は、これでよいのかとあらためて考えさせられます。不振の理由はどこにあるのでしょうか?
*不振の理由
理由は複合的ですが、まず、指摘すべきは、日本の英語授業は、本音では「受験のための英語」なので、「コミュニケーションのための英語力」は育たないのということです。受験のために暗記した知識は、受験が終われば賞味期間切れとなり、急速に失われます。だから、通常の英語授業を変えないかぎり、本当の英語力は伸びないのです。
第2の理由としては、文部行政の貧困があります。中学の週3体制、非常識なクラス・サイズ、過重な雑務で疲弊する教師、進学競争のプレッシャー、小学校英語活動をめぐる迷走などなど、無責任な教育行政も不振の大きな理由です。
第3の理由として、教員養成が挙げられるでしょう。およそ「プロ」を育てる体制ができておらず、必要な英語力、授業力、授業改善力を育ててから現場に送りだすというシステムがないまま、「免許状更新」など、まさに「割れ鍋に閉じ蓋」でしかありません。
第4の、最も重要な理由は、政治の混迷です。将来のvisionがないまま、経済利益優先の自由化に突っ走り、それが社会的格差を生み、弱者切捨てにつながり、本来最優先すべき教育を軽視する風潮を増長し、結局は「学校bashing 」の原因となっているのです。この負の循環を断ち切るには、国民が、なかんずく教師が、未来への展望を持たなければなりません。その意味では、フィンランド教育は格好の鏡となります。
*フィンランド教育を鏡に
私は「フィンランドは学力世界一」という言葉に酔っているわけではありません。この国が、日本の「不振の理由」を見事に映し出してくれるからです。まず、見習うべきは明確な国家的なvision です。フィンランドはアメリカ主導の「国際化」と一線を画し、「もうひとつの国際化」の旗手と自国を位置づけています。「もう一つの国際化」というのは、経済的利潤だけを優先するのではなく、人権、平等、文化、環境など人類共通の価値を守るという立場です。「国際化」に含まれる経済的競争と民主主義のどちらを優先するかと言い換えてもよいでしょう。日本はアメリカの尻馬に乗り、経済の自由競争と新保守主義の政策を進めてきました。フィンランドは国際的な競争力を維持しながらも、多文化と共存・協働する姿勢を国是とし、その原動力を教育に求めてきました。PISAの学力テストも、煎じ詰めれば、協働して国際問題を解決する地球市民の育成を目指したものなのです。
ですから、フィンランドでは「教育だけが国を救う」という信念のもと、教育立国を目指し、いろいろな制度改革を実施してきました。すなわち、教育に関る費用は小学校から大学まで全額免除、入学試験や全国共通学力テストは廃止、少人数クラスの徹底、落ちこぼれのない教育、などなど、現場の裁量権を大幅に増やし、管理は必要最低限にしてきました。PISAの成績が良いのも、下位生徒の成績が他国と比してずば抜けて高いからです。この点については、福田誠治『競争やめたら学力世界一』(2006:朝日新聞)参照。
フィンランドの教員養成のシステムも、また、優れています。もともと、高校生の憧れの職業No. 1 ということもあり、優秀な人材が教員を志望することに加えて、500 時間もの教育実習を計画的に課し、大学の講義と実習校のメンターの協力で、授業力、授業改善力を徹底的に鍛えるのです。また、修士号が条件なので、research-based teacher education が見事に実現し、アクション・リサーチは、その中核をなしています(Jakku-Sihvonen. R. 2008. Education as a Societal Contributor: Peter Lang. p 156-7)。
では、学校ではどのような指導法が用いられているのでしょうか。もともと、英語に対する興味が強い社会的環境や、小学校3年生から英語が必修だということもあり、高校の卒業生なら、英語で十分コミュニケーションできる能力が当然だとされています。授業はタスク中心で、考える、相互交渉する、発表する、書くことが重視されます。具体例は日本からの留学生が高校の英語授業でどのように変身したかを書いた手記(実川真由美『受けてみたフィンランド教育』2007:文芸春秋)を参照してください。
このように見てくると、フィンランドは国家戦略に基づいて教育政策があり、それを実現するための教師養成が実施され、授業実践がなされていることが分かります。では、前提条件が全く異なる日本では、どうすればよいのでしょうか。
*アクション・リサーチは日本を救えるか
では、私たちは何ができるのでしょうか。国の戦略や教育政策は、一教師の手に負えるものではありません。しかし、私たちにもできることがあります。それは、本来なら教員養成課程で身につけるべき授業力、授業改善力が自分に備わっているかチェックすることです。もし、不足を認識したら、自力でカバーする努力をすべきです。それが「プロの教師」の責任だと自覚し、自律した教師となるべく努力することです。その最も容易な方法は、生徒たちを自分の授業改善の研究パートナーと位置づけ、協働して日日の授業改善に努めるのです。この体験は教師の成長に意味があるだけでなく、生徒にも、将来の民主的な日本人として異なる文化の人たちと協働して問題解決にあたる能力、すなわち、intercultural communication competence の育成を助けることにもなります。換言すれば、ARを実践すれば、教師も生徒もそれぞれの可能性を高めることができるのです。
しかし、アクション・リサーチで問題が全て解決するということではありません。事実、アクション・リサーチの母国であるイギリスでは、ARの質、量ともに近年、落ち目にあることが気になっていました。それが、つい最近、次の記事を見つけました。
Concerns have been expressed that forms of reflective practice, particularly action research, are being narrowly interpreted and employed instrumentally as a means of realizing government policy aims. (Clayton, S. et, al. 2008. I know it's not proper research, but…Educational Action Research. Vol. 16)
「やっぱりそうか」というのが実感でした。ARの衰退とイギリスの教育の退潮は無関係ではなかったのです(福田誠治『競争しても学力行き止まり:イギリス教育の失敗とフィンランドの成功』(2007: 朝日新聞)。現在では、イギリスに変わり、オランダ、ベルギー、フィンランド、スウエーデンの北欧諸国で、ARは教員養成や現場で利用されています。そして、概して言えば、この国々では教育に対する国民の満足度は高いのです。
そこで、最終的な質問、「ARは英語教育を救えるか?」への解答です。結論としていえば、目先の利益のためだけにARを利用しても、やがて行き詰まるでしょう。より長期的な視点が必要です。生徒は現状を認識した上で、明日の国際社会を生きる生徒を育むためには、今、自分は何かできるのか、教師としてのプライドを賭けてARを進めてゆかなければなりません。可能でしょうか? Yes, we can! And we must!
シンポジュームでの質問に答える
1) なぜ、アクション・リサーチでは、「仮説」が2個や3個もあるのですか?仮説が1個なら、実験の成功・失敗が仮説の肯定・否定と直結すると思うのですが。
まず、注意して欲しいのは、ARの「仮説」は、実験的調査で証明したり、否定したりする「仮説」とは異なり、授業改善をするための「対策」と呼んだほうが実態に近いということです。具体例で説明しましょう。
「内気な生徒が多く、話すことを苦手とするクラスで、ALTとの対話を1分間持続できる生徒を増やすには、どのように指導すればよいか」という問題を扱ったとします。実態調査をすると、少なくとも次のような要因が関連していることが分かるでしょう。
(1) 情緒的な要因(笑われるからいや、恥ずかしい、ALTだと緊張する、などなど)
(2) 語学的要因(単語が分からない、文法に自信がない、発音が苦手、などなど)
(3) 体験的要因(外国人と話したことがない、何を話したらよいのか分からない、話しの切り出し方がわからない、などなど)
とすれば、このリサーチの成否は3要因のすべてに関連しています。ですから「仮説」が複数とならざるを得ないのです。ただ、「仮説」のすべてを同時に実施するわけではありません。当初は(1)の仮説を、たとえば「弾丸インプット」で対応し、話す抵抗が減ずることに精力を集中し、それがなんとかできたことを確認したら、次ぎの仮説、「文型の導入は自己表現活動に結びつけて行う」に集中し、1) 2)が一応できたことを確認してから、第3の仮説、「スピーチを用いたグループ活動で、話す体験を多くする」に努力を集中するのです。
2)「受験英語は悪」のように言われると、受験生を指導する立場にいる者として納得できません。「ARは生徒の実態を直視する」といいながら、合格したい生徒の希望に応えようと努力している教師を否定するのでしょうか。
まず、「受験英語」は日本の英語教育の一部である以上、それを無視しては受験校でのARは不可能です。私が否定しているのは、受験に合格することが最終目標となっている授業です。すなわち、受験に受かるためのテクニークや英語力を付けることが目標となっている授業だとしたら、それはもったいないと言いたいのです。なぜなら、受験に合格することと、コミュニカティブな授業を展開することは概ね矛盾しないからです。少なくとも、センター試験のレベルでは、教師の工夫で両立は可能だと思います。
その一方で、英文和訳や和文英訳の入試を課す大学が存在することも事実です。しかし、こうした大学に合格させることが目標だとしたら、予備校と全く変わらない授業になるでしょう。それで「未来を生きる力」を生徒に与えることができるでしょうか。目先の入試のために、「英語嫌いで、英語力も低い生徒」を大量生産しているとしたら、教師としてのプライドはどこにあるのでしょうか。受験を越えても意味のある英語力を伸ばすのが教師の任務だと私は主張したいのです。
おめでとうございます
みなさま、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年の6月から通信を開始しましたので、丁度、半年が経過したことになります。通信が、アクション・リサーチの理解や実践に少しはお役にたったでしょうか。こちらとしては見えない相手に呼びかけているので、それなりに苦労もありますが、反面、アウトプットを期待するにはその何倍ものインプットが必要だと理解しておりますので、今年も私の考えや多くの情報を通信でお知らせしたいと思っています。そこから、よりインターアクティブな関係が構築されることを期待して、年頭の挨拶といたします。
初売りの福袋:「なぜ、アクション・リサーチなのか」
さて、今年の初売りは、昨年11月29日の「アクション・リサーチ交流会」で私がした基調講演の紹介です。これは年頭の「福袋」ですから、当然、中身が多く、必ずしも、欲しいものだけ入っているとは限りません。ご了解のほどお願いいたします。
*これでよいのか日本の英語教育
最近読んだ論文(斎田.2008.JACET Journal.No.47)に興味深い調査結果が載っていました。日本の大学生の平均的な英語力を「ヨーロッパ共通参照枠」で検証すると、「文法力」や「語彙力」は辛うじてヨーロッパの高校生なみだが、「読む力」「書く力」は中学生なみ、「聞く力」に至っては小学生なみだというのです。なんとも厳しい結果ではありませんか。ただ、「聞く力」については、音声が聞きなれた米語ではなく英語だということ、また、機器の操作で、聞くことに集中できなかったなどの事実を勘案する必要はあるでしょうが。
また、被験者は一つの国立大学の学生なので、結果を一般化して「日本の大学生」として論ずるのは不適切だという批判も当然可能です。だが、この学生たちの平均的な語彙サイズが3,700語程度であり、しかもきれいな正規分布をしていることから、日本の大学生の一般的な英語力とみなして、大きな違いはなさそうです。とすると、日本の英語教育は、これでよいのかとあらためて考えさせられます。不振の理由はどこにあるのでしょうか?
*不振の理由
理由は複合的ですが、まず、指摘すべきは、日本の英語授業は、本音では「受験のための英語」なので、「コミュニケーションのための英語力」は育たないのということです。受験のために暗記した知識は、受験が終われば賞味期間切れとなり、急速に失われます。だから、通常の英語授業を変えないかぎり、本当の英語力は伸びないのです。
第2の理由としては、文部行政の貧困があります。中学の週3体制、非常識なクラス・サイズ、過重な雑務で疲弊する教師、進学競争のプレッシャー、小学校英語活動をめぐる迷走などなど、無責任な教育行政も不振の大きな理由です。
第3の理由として、教員養成が挙げられるでしょう。およそ「プロ」を育てる体制ができておらず、必要な英語力、授業力、授業改善力を育ててから現場に送りだすというシステムがないまま、「免許状更新」など、まさに「割れ鍋に閉じ蓋」でしかありません。
第4の、最も重要な理由は、政治の混迷です。将来のvisionがないまま、経済利益優先の自由化に突っ走り、それが社会的格差を生み、弱者切捨てにつながり、本来最優先すべき教育を軽視する風潮を増長し、結局は「学校bashing 」の原因となっているのです。この負の循環を断ち切るには、国民が、なかんずく教師が、未来への展望を持たなければなりません。その意味では、フィンランド教育は格好の鏡となります。
*フィンランド教育を鏡に
私は「フィンランドは学力世界一」という言葉に酔っているわけではありません。この国が、日本の「不振の理由」を見事に映し出してくれるからです。まず、見習うべきは明確な国家的なvision です。フィンランドはアメリカ主導の「国際化」と一線を画し、「もうひとつの国際化」の旗手と自国を位置づけています。「もう一つの国際化」というのは、経済的利潤だけを優先するのではなく、人権、平等、文化、環境など人類共通の価値を守るという立場です。「国際化」に含まれる経済的競争と民主主義のどちらを優先するかと言い換えてもよいでしょう。日本はアメリカの尻馬に乗り、経済の自由競争と新保守主義の政策を進めてきました。フィンランドは国際的な競争力を維持しながらも、多文化と共存・協働する姿勢を国是とし、その原動力を教育に求めてきました。PISAの学力テストも、煎じ詰めれば、協働して国際問題を解決する地球市民の育成を目指したものなのです。
ですから、フィンランドでは「教育だけが国を救う」という信念のもと、教育立国を目指し、いろいろな制度改革を実施してきました。すなわち、教育に関る費用は小学校から大学まで全額免除、入学試験や全国共通学力テストは廃止、少人数クラスの徹底、落ちこぼれのない教育、などなど、現場の裁量権を大幅に増やし、管理は必要最低限にしてきました。PISAの成績が良いのも、下位生徒の成績が他国と比してずば抜けて高いからです。この点については、福田誠治『競争やめたら学力世界一』(2006:朝日新聞)参照。
フィンランドの教員養成のシステムも、また、優れています。もともと、高校生の憧れの職業No. 1 ということもあり、優秀な人材が教員を志望することに加えて、500 時間もの教育実習を計画的に課し、大学の講義と実習校のメンターの協力で、授業力、授業改善力を徹底的に鍛えるのです。また、修士号が条件なので、research-based teacher education が見事に実現し、アクション・リサーチは、その中核をなしています(Jakku-Sihvonen. R. 2008. Education as a Societal Contributor: Peter Lang. p 156-7)。
では、学校ではどのような指導法が用いられているのでしょうか。もともと、英語に対する興味が強い社会的環境や、小学校3年生から英語が必修だということもあり、高校の卒業生なら、英語で十分コミュニケーションできる能力が当然だとされています。授業はタスク中心で、考える、相互交渉する、発表する、書くことが重視されます。具体例は日本からの留学生が高校の英語授業でどのように変身したかを書いた手記(実川真由美『受けてみたフィンランド教育』2007:文芸春秋)を参照してください。
このように見てくると、フィンランドは国家戦略に基づいて教育政策があり、それを実現するための教師養成が実施され、授業実践がなされていることが分かります。では、前提条件が全く異なる日本では、どうすればよいのでしょうか。
*アクション・リサーチは日本を救えるか
では、私たちは何ができるのでしょうか。国の戦略や教育政策は、一教師の手に負えるものではありません。しかし、私たちにもできることがあります。それは、本来なら教員養成課程で身につけるべき授業力、授業改善力が自分に備わっているかチェックすることです。もし、不足を認識したら、自力でカバーする努力をすべきです。それが「プロの教師」の責任だと自覚し、自律した教師となるべく努力することです。その最も容易な方法は、生徒たちを自分の授業改善の研究パートナーと位置づけ、協働して日日の授業改善に努めるのです。この体験は教師の成長に意味があるだけでなく、生徒にも、将来の民主的な日本人として異なる文化の人たちと協働して問題解決にあたる能力、すなわち、intercultural communication competence の育成を助けることにもなります。換言すれば、ARを実践すれば、教師も生徒もそれぞれの可能性を高めることができるのです。
しかし、アクション・リサーチで問題が全て解決するということではありません。事実、アクション・リサーチの母国であるイギリスでは、ARの質、量ともに近年、落ち目にあることが気になっていました。それが、つい最近、次の記事を見つけました。
Concerns have been expressed that forms of reflective practice, particularly action research, are being narrowly interpreted and employed instrumentally as a means of realizing government policy aims. (Clayton, S. et, al. 2008. I know it's not proper research, but…Educational Action Research. Vol. 16)
「やっぱりそうか」というのが実感でした。ARの衰退とイギリスの教育の退潮は無関係ではなかったのです(福田誠治『競争しても学力行き止まり:イギリス教育の失敗とフィンランドの成功』(2007: 朝日新聞)。現在では、イギリスに変わり、オランダ、ベルギー、フィンランド、スウエーデンの北欧諸国で、ARは教員養成や現場で利用されています。そして、概して言えば、この国々では教育に対する国民の満足度は高いのです。
そこで、最終的な質問、「ARは英語教育を救えるか?」への解答です。結論としていえば、目先の利益のためだけにARを利用しても、やがて行き詰まるでしょう。より長期的な視点が必要です。生徒は現状を認識した上で、明日の国際社会を生きる生徒を育むためには、今、自分は何かできるのか、教師としてのプライドを賭けてARを進めてゆかなければなりません。可能でしょうか? Yes, we can! And we must!
シンポジュームでの質問に答える
1) なぜ、アクション・リサーチでは、「仮説」が2個や3個もあるのですか?仮説が1個なら、実験の成功・失敗が仮説の肯定・否定と直結すると思うのですが。
まず、注意して欲しいのは、ARの「仮説」は、実験的調査で証明したり、否定したりする「仮説」とは異なり、授業改善をするための「対策」と呼んだほうが実態に近いということです。具体例で説明しましょう。
「内気な生徒が多く、話すことを苦手とするクラスで、ALTとの対話を1分間持続できる生徒を増やすには、どのように指導すればよいか」という問題を扱ったとします。実態調査をすると、少なくとも次のような要因が関連していることが分かるでしょう。
(1) 情緒的な要因(笑われるからいや、恥ずかしい、ALTだと緊張する、などなど)
(2) 語学的要因(単語が分からない、文法に自信がない、発音が苦手、などなど)
(3) 体験的要因(外国人と話したことがない、何を話したらよいのか分からない、話しの切り出し方がわからない、などなど)
とすれば、このリサーチの成否は3要因のすべてに関連しています。ですから「仮説」が複数とならざるを得ないのです。ただ、「仮説」のすべてを同時に実施するわけではありません。当初は(1)の仮説を、たとえば「弾丸インプット」で対応し、話す抵抗が減ずることに精力を集中し、それがなんとかできたことを確認したら、次ぎの仮説、「文型の導入は自己表現活動に結びつけて行う」に集中し、1) 2)が一応できたことを確認してから、第3の仮説、「スピーチを用いたグループ活動で、話す体験を多くする」に努力を集中するのです。
2)「受験英語は悪」のように言われると、受験生を指導する立場にいる者として納得できません。「ARは生徒の実態を直視する」といいながら、合格したい生徒の希望に応えようと努力している教師を否定するのでしょうか。
まず、「受験英語」は日本の英語教育の一部である以上、それを無視しては受験校でのARは不可能です。私が否定しているのは、受験に合格することが最終目標となっている授業です。すなわち、受験に受かるためのテクニークや英語力を付けることが目標となっている授業だとしたら、それはもったいないと言いたいのです。なぜなら、受験に合格することと、コミュニカティブな授業を展開することは概ね矛盾しないからです。少なくとも、センター試験のレベルでは、教師の工夫で両立は可能だと思います。
その一方で、英文和訳や和文英訳の入試を課す大学が存在することも事実です。しかし、こうした大学に合格させることが目標だとしたら、予備校と全く変わらない授業になるでしょう。それで「未来を生きる力」を生徒に与えることができるでしょうか。目先の入試のために、「英語嫌いで、英語力も低い生徒」を大量生産しているとしたら、教師としてのプライドはどこにあるのでしょうか。受験を越えても意味のある英語力を伸ばすのが教師の任務だと私は主張したいのです。
Sunday, January 4, 2009
新年のご挨拶 2009
新年あけましておめでとうございます。
日本の英語教育をなんとかしたい。そのための第一歩として、マンネリ化した教員研修を変えたい。そのような思いから、私たちは昨年7月に「AR支援ネットワーク」は立ち上げました。
これまでも、魅力的な教員研修はたくさんありました。すばらしい実践、精緻な理論、楽しいお話。参加者は、多くのことを学び、授業に生かしてきました。これからも、こうした学びは提供し続けるべきだと思います。
一方、それだけでは、根本的には授業が変わらないことも見てきました。一人ひとりの教員が、それぞれの教室で、自らの問題意識に基づいて、結果と原因を考えながら、論理的に問題を追及していく研修が必要なのです。
この点について『AR支援ネットワーク通信』第1号(2008.7.1配信)では次ぎのように述べています。
「極端に言えば、授業の責任が取れなければ、一人前の教師ではないのです。ということは、そのための教員研修は、自分が選んだ問題の解決を探ることを中心にすべきです。「リサーチのownership」が確保されない研修は、教師の育成には欠けた部分があるのです。」
私たちは教師をリサーチャーにしようとしているのではありません。「生徒たちが、目を輝かせて、英語に取り組む姿をみたい」という一途な思いで、がんばっている先生方が、全国にはたくさんおられます。そのような先生方を、応援していくには、研修の立案や実施に携わっている私たちは何をすればよいか。今年も、「AR支援ネットワーク通信」を通じて、一緒に考えていきたいと思います。
今年も、よろしくお願いいたします。
2009年元旦
アクション・リサーチ支援ネットワーク
佐野 正之 高橋 一幸 金森 強 長崎 政浩
日本の英語教育をなんとかしたい。そのための第一歩として、マンネリ化した教員研修を変えたい。そのような思いから、私たちは昨年7月に「AR支援ネットワーク」は立ち上げました。
これまでも、魅力的な教員研修はたくさんありました。すばらしい実践、精緻な理論、楽しいお話。参加者は、多くのことを学び、授業に生かしてきました。これからも、こうした学びは提供し続けるべきだと思います。
一方、それだけでは、根本的には授業が変わらないことも見てきました。一人ひとりの教員が、それぞれの教室で、自らの問題意識に基づいて、結果と原因を考えながら、論理的に問題を追及していく研修が必要なのです。
この点について『AR支援ネットワーク通信』第1号(2008.7.1配信)では次ぎのように述べています。
「極端に言えば、授業の責任が取れなければ、一人前の教師ではないのです。ということは、そのための教員研修は、自分が選んだ問題の解決を探ることを中心にすべきです。「リサーチのownership」が確保されない研修は、教師の育成には欠けた部分があるのです。」
私たちは教師をリサーチャーにしようとしているのではありません。「生徒たちが、目を輝かせて、英語に取り組む姿をみたい」という一途な思いで、がんばっている先生方が、全国にはたくさんおられます。そのような先生方を、応援していくには、研修の立案や実施に携わっている私たちは何をすればよいか。今年も、「AR支援ネットワーク通信」を通じて、一緒に考えていきたいと思います。
今年も、よろしくお願いいたします。
2009年元旦
アクション・リサーチ支援ネットワーク
佐野 正之 高橋 一幸 金森 強 長崎 政浩
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